長倉山寳性寺(ながくらさんほうしょうじ)

長倉山寳性寺年代歴

天長元年(824)   天長元甲辰年古宿開発3人長倉神社祀る。開山法印俊清 源頼朝臣源氏多聞院寳性寺とあり。
永久5丁酉念正月開基
長倉多聞院遷化
是等の古記録散見するが歴史上定かならず。
正和元年(1325)   長倉一郷の領主長倉多聞院寳性寺開基
開基の寺地等判明せず但し此の頃官牧長倉牧の発達し社寺等開基せらる。
明応元年(1492)   寳性寺焼失
天正8年3月(1587)   長倉八幡宮建替 此年寳性寺再建すとの記あり
明應焼出後28年にして再建された。寺再建地判明せず
文禄4年(1592)   寳性寺焼失
天正8年再建後16年で火災焼失
元和3丁巳年(1618)  寳性寺再建法印秀海
文禄4年焼出後此年まで21年
秀海元和9年11月遷化
寛永2て丑年(1623)   寳性寺中興法印秀海の墓石造立
宮型墓石在銘のもの重金最古のもの 惠円代
正保2て酉年(1645)   長倉字寺屋敷地籍に寳性寺建立 元和3年再建の寳性寺の焼失の記見当たらず。
寳性寺、先師秀海再建の場所より少し東南二町四方の寺地に建立、壮大美麗にして附近に修験行者道場、薬師観音堂等が建立された。寺地東西五十間南北五十八間、旧々中仙道南口大門境内に光明眞言供養碑元禄3年在銘のものあり。
宝暦9年(1759)   寳性寺より沓掛長倉神社々僧(別当か)の申し入れをなし、論争
本地垂迹説によって、神佛混淆の思想濃厚であったことを物語るもの、けだし寺運興隆したことを物語る。
明和元甲年6月(1764)   寳性寺焼失
此頃の沓掛の戸数101 人口673人
安永2癸巳年7月(1773)   沓掛宿大火戸数約130戸の内104戸焼失
此大火後沓掛宿は北側(現在の中軽井沢)に移る 寳性寺は建立しあらず、今年の沓掛は拝借金計737両2分、10ヶ年返賦で家計と新築につとめた。宿内戸数は大減した。
天明3癸卯年7月(1778)   浅間山未曾有の大爆発、良厳代
大爆発の甚大の被害に続いて数年全国的飢饉に悩まされた。
寛政5年癸丑年(1794)   宿移転後の字堀地籍に寳性寺再建秀芳代
寺地東西十間三尺、南北四十間、本堂、庫裡梵鐘、其他付属建物等整備、朱楽菅光の歌碑此頃漸く状態も立直り沓掛の寛政4年宗門帳179戸、人口男328、女336
昭和8癸酉年(1933)   假本堂12坪新建立 深周代
弘法大師入寂
一千百年御遠忌記念 檀徒の寄進
昭和18癸巳年(1943)   従来境内中にあった梵鐘大東亜戦金属回収供出 深厚代
昭和39甲辰年(1964)  町内大字長倉字小岩地籍寳性寺所有地内に寳性寺新築移転 深亮代
本堂、書院、庫裡
合計458.2平方メートル 此建設費2200万円は字太郎山寳性寺所有地処分による
昭和41年(1966)  鐘楼堂復興設置 深亮代
建設費檀徒の寄付金百八十余万円
昭和48癸丑年(1973)  寳性寺所有地内本堂北山に長倉霊園新設 深亮代
昭和50年元寺屋敷(堂坂)より出土品、石造香炉遺物
昭和50丙辰年(1976)  5月16日
住職川島深亮 権少僧正に昇格

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